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785年からフランク王国は再度の攻勢に出た。ルートヴィヒ(ルイ)1世に率いられたフランク軍は地中海側から侵攻し、ヘローナを攻略しスペイン攻略の橋頭堡とした。フランク軍はその後も南下を続け、801年にはバルセロナを攻略した。後ウマイヤ軍の迎撃によって間もなく侵攻は停止したが、獲得したバルセロナはその後のフランク軍の軍事拠点となった。865年、フランクはバルセロナ伯を置いて、カタルーニャを統治させた。しかし、カタルーニャはしだいにフランクと距離を置き始め、やがては完全な独立勢力となった。
一度は征服されたパンプローナだったが、地元の有力者イニゴ・アリスタが中心となり、まもなく反旗を翻した。イニゴ・アリスタは後ウマイヤ朝の鎮圧軍を撃退し、さらに手を伸ばしてきたフランク軍も撃退した。同じ頃、ハーカでもアスナール・ガリンド1世がフランクの貴族を追い出していた。この2つの反乱によって、FX 初心者
ウマイヤ朝、フランク王国ともにこの地方に対する影響力は低下した。805年、アスナール・ガリンド1世がアラゴン伯領を興し、次いで824年、イニゴ・アリスタがナバラ王国(パンプローナ王国)を興した。隣接する両国は当初から親密な関係を維持し、後の905年、サンチョ1世の代に婚姻を通じて統合した。
たび重なるキリスト教勢力の侵攻もあり、9世紀中葉から、後ウマイヤ朝の支配体制は揺らぎ始めた。各地の総督や貴族が独立を画策し、キリスト教徒の反乱と相まって、鎮圧に精力を傾けなければならなかった。もっとも大規模な反乱はトレドで起こったもので、鎮圧するのに20年以上もかかった。
アストゥリアス王国は、この混乱に付け込んで徐々に版図を広げていき、10世紀初頭までにドゥエル川以北を支配下におさめた。914年、ガルシア4世の代にレオンへ遷都し、レオン王国(レオン・アストゥリアス王国)へ改名した。
912年、アブド・アッラフマーン3世が即位すると、後ウマイヤ朝の統治能力は回復し始めた。アブド・アッラフマーン3世は、反抗的勢力やキリスト教勢力を抑えて国内の安定を図り、同時に内政にも力を注いだ。彼の統治下でアル・アンダルスの経済は先物取引
に発展した。後ウマイヤ朝の最盛期はこの時期とされている。
この頃、北アフリカでファーティマ朝が興り、その指導者はカリフを自称していた。これに対抗するように、アブド・アッラフマーン3世はそれまでのアミールから、「コルドバのカリフ」を称するようになった。アブド・アッラフマーン3世は、ジブラルタル海峡を越えてモロッコへ兵を派遣し、ファーティマ朝との戦いを開始した。 932年、アブド・アッラフマーン3世は、キリスト教勢力を打倒するため、自ら軍を率いて北上した。後ウマイヤ軍は北部の諸都市を攻撃し、937年には主要都市であるサラゴサを攻略した。レオン、ナバラ、カスティーリャを中心とするキリスト教勢力、およびムスリムの反乱勢力は、この非常事態に団結した。939年、連合軍はシマンカスの戦いで後ウマイヤ軍を破った。アブド・アッラフマーン3世はコルドバまで敗退した。
以降、アブド・アッラフマーン3世の関心は主に北アフリカに向けられるようになった。後ウマイヤ朝は、一時はモロッコの過半を制圧するが、次第にファーティマ朝が勢力を盛り返し、963年にはセウタを保持するのみとなった。遠征に失敗した後ウマイヤ朝は、再びイベリア半島に視線を戻した。
レオン王国の最前線となる先物取引
は、すでに9世紀初頭には、「城」を意味するカスティーリャと呼ばれていた。932年、後ウマイヤ朝の北上に対抗させるため、レオン王国はこの地域を統合してカスティーリャ伯領を設置し、フェルナン・ゴンサレスをカスティーリャ伯とした。しかし、カスティーリャは次第に独立色を強めていき、やがてレオン王国を乗っ取ろうとするようになった。
951年、フェルナン・ゴンサレスはレオンの王位を要求し、カスティーリャとレオン王国の間に戦端が開かれた。958年、レオン王のサンチョ1世はカスティーリャ軍によって国を追われた。サンチョ1世は後ウマイヤ朝に通じ、王位復帰後の臣従と領土の割譲を約束して、援軍を引き出すことに成功した。960年、レオンの王位に復帰したサンチョ1世は、後ウマイヤ朝との約束を全て無視した。北アフリカ戦線が停滞していた後ウマイヤ朝は、これを機に主攻をイベリア戦線に切り替えた。キリスト教勢力は連合を結び、シマンカスの戦いの再現を狙った。しかし、北アフリカとの二正面で作戦していた前回と違い、後ウマイヤ軍は戦力を集中させていた。連合軍は大敗し、一時はバルセロナやパンプローナまで危機に陥った。劣勢となった連合は講和を願い出た。後ウマイヤ朝は貢納と引き換えに講和を了承した。
976年、ヒシャーム2世が即位した。彼は未成年だったため、筆頭大臣のムハンマド・イブン・アビー・アーミルが後見した。すると彼の権勢に嫉妬したガーリブが謀反し、カスティーリャと連携を結んだ。ムハンマドは直ちに討伐の軍を起こし、ガーリブを破って敗死させ、その勢いでカスティーリャに日経225
した。キリスト教勢力は再び連合を組んで対抗しようとしたが、ムハンマドの巧妙な戦略にまるで抗することができなかった。ムハンマドの攻勢はイベリア半島全土におよび、バルセロナ、パンプローナ、ポルトといった主要都市まで侵攻した。キリスト教勢力は完膚なきまでに敗北し、ことごとく後ウマイヤ朝に臣従を誓った。ナバラ王国のサンチョ2世はムハンマドに娘を差し出した。この一連の勝利によって、ムハンマドはアル・マンスール・ビッラー(神によって勝利する者)を称した。
1002年にムハンマドが死亡してから10年もたたないうちに、後ウマイヤ朝は衰退を始めた。筆頭大臣となったムハンマドの子のサンチュエロ(母はナバラ王の娘)は、カリフの後継者を自称し、また被差別民だったベルベル人を優遇したために、多くの勢力から反感を買った。1008年、コルドバでクーデターが発生し、サンチュエロは殺され、ヒシャーム2世は退位させられた。この時、ムハンマド2世とスライマーンという2人のカリフが擁立され、なし崩し的に内乱状態に突入した。
コルドバを中心としたイベリア南部を領有するムハンマド2世と違い、スライマーンには地盤がなかった。そこで彼はカスティーリャに支援を要請し、その兵力でコルドバを攻略することに成功した。しかし、これが先例となり、各地で勃興した反乱者は北部のキリスト教勢力を内乱に引き込み始めた。内乱はますます激化し、カリフの存在は何の意味も持たなくなった。1031年、ヒシャーム3世が廃され、ついに後ウマイヤ朝は滅亡した。イベリア半島全土はタイファと呼ばれるイスラームの小国が並び立つこととなった。セビリャ、サラゴサ、トレド、グラナダ、バダホースといった主要なタイファが後ウマイヤ朝の遺領を分割し、彼らは互いに支配権をめぐって争った。
1031年の後ウマイヤ朝滅亡後、イスラーム勢力は分裂し、キリスト教勢力は失地回復していった。グラナダのナスル朝を除いてイスラーム勢力が消滅した1251年までをみる。
後ウマイヤ朝からの圧力が減退したため、イベリア北部ではキリスト教勢力の再編が起こっていた。ナバラ王サンチョ・ガルセス3世は、レオン王国を攻めて一挙に勢力を拡大し、さらにカスティーリャ伯領から后を迎えた。1029年にカスティーリャ伯のガルシア・サンチェスが暗殺されると、カスティーリャをナバラ王国に併合した。1035年、サンチョ・ガルセス3世は死亡し、遺領は分割相続された。ナバラは長男のガルシア・サンチェス3世、カスティーリャは次男のフェルナンド1世、ソブラルベ伯領は三男のゴンサロ、アラゴンは庶子のラミロ1世に与えられた。この時、カスティーリャ、アラゴンは王号を称し、それぞれカスティーリャ王国、アラゴン王国となった。
1037年、フェルナンド1世はレオン王国を併合し、カスティーリャ・レオン連合王国を建国した。1065年、フェルナンド1世はバレンシア遠征の途上で病死、カスティーリャ・レオン連合王国もまた分割相続され、カスティーリャは長男のサンチョ2世、レオンは次男のアルフォンソ6世、ガリシアは三男のガルシアに与えられた。